函館文化会では、郷土の歴史・文化を学び、探求しながら、受け継がれてきた「郷土の歴史・文化」を後世に継承することを目的に、年2回「市民公開講座」を開催しています。 

 第9回は8月23日(火)午後函館大学講義室を会場にグレイスモデル代表で元東武鉄道(株)社員であった増井慎吾氏を迎え「市電のルーツ・函館馬車鉄道ものがたり」と題し、江戸時代から明治・大正の国内道路事情や陸上交通の発達過程を織り交ぜながら,今の市電に繋がる経緯を函館の馬車鉄道の生みの親であり,湯の川温泉中興の祖とも云える佐藤祐知の人物像にも触れながらの話に40名を超える会員、市民が耳を傾けました。なお、今回の講座の概要は、会報「巴響」第84号に掲載しています。
IMG_2099 (2) 写真⑤-3-1 増井 IMG_2103
 

 増井さんは、人が移動する手段として、江戸時代は「輿(こし)」や「駕籠(かご)」、明治時代に入って「人力車」や「馬車」が使われた。明治5年(1872)に新橋と横浜間を走る蒸気鉄道が日本で初めて開通し、都市間の大型物資や人員の大量輸送を担った。

一方,馬車鉄道などの軽軌道については市中往来を安全で簡便に変えられる移動手段として明治政府が馬車鉄道に注目したことがきっかけとなり、10年後の明治15年(1882)に東京で鉄道馬車が走り始めると続いて全国へ普及することとなり、函館には明治30年(1897)に北海道初として馬車鉄道が走り始めた。 
写真⑤-3-2 函館馬鉄
     (開業時、湯の川温泉を走る馬車鉄道)
 当時、函館と湯の川村との間は10キロ程しか離れていなかったが、交通の不便さから、折角、泉質に恵まれていた湯の川村の温泉は,段々と客足が途絶え衰退の一途を辿っていった。そんな最果ての地と考えられていた湯の川村で商売を営んでいた佐藤祐知が復興を目指して先ず蒸気鉄道を敷いて利便性を高めようと計画したが、国の免許が下りず断念し、馬車鉄道の敷設を決意した。様々な反対運動に会いながらも佐藤は、明治30年(1897)12月、東川町を皮切りに末広町から弁天に至る山線と濱通りを抜ける海線の2線区から運行を始め、その1年後の明治31年(1898)12月に念願だった湯の川村までの区間を開通させた。

        写真⑤-3-3 馬車鉄道記念碑 image6 (2)
      (駒場車庫前にある、馬車鉄道記念碑)
函館馬車鉄道は大正2年(1913)に電化されるまで市民の足として活躍したが、馬という生き物特有の事象や日露戦争の勃発により軍馬として馬が徴用されたことなどが馬車鉄道終焉を近づける要因となった。こうして馬車鉄道はその使命を路面電車に引き渡していきますが、函館水電の前身となる渡島水電が函館馬車鉄道を買い取り、経費の掛かる馬から低廉なエネルギーの電気を動力源とする路面電車へと変わり交通道路事情が向上しながら函館の街も著しい発展をしていったと解説した。

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 今回,聴講された皆さんからは,陸上運送の歴史等を分かり易く解説して貰い、非常に興味深かった。分かり易い説明に写真も使い函館馬鉄の経緯について楽しく勉強できた。などの声が寄せられました。 

次回(第10回)の、市民公開講座は3月中旬に「郷土の歴史と文化」をテーマに開催します。詳細決まりましたら、お知らせします。